佐藤春夫は詩人であり小説家。慶応義塾大学在学中に『スバル』『三田文学』に詩や評論を発表。1919年『田園の憂鬱』を発表し、小説家として文壇に注目された。その佐藤が1920年代に中国を旅したエッセイが本書。陰鬱な描写には、すでに始まっていた反日運動と日中関係悪化による「わかりあえなさ」の反映があるとみていいだろうが、その前提に、諦念のようなものも見え隠れする。そもそも、人と人は「わかりあえない」。他者はどこまでいっても他者であり、人はどこまでも孤独である（佐藤が谷崎潤一郎の妻との三角関係で神経衰弱になるのもこの頃）
台湾から中国大陸側に船で渡った佐藤は、あれが観たいこれが観たい誰に会いたいとガイドに多く要求するわりには、現地で出会う人との交歓を楽しめず、延々と、悶々と、言葉の通じなさや気持ちの伝わらなさを嘆く。佐藤はその後、幾度か中国北京や上海を文学者として訪れ、郁達夫や田漢と交流を深めるが、戦況が進むにつれて交流はままならなくなる。戦時中の佐藤は「愛国者」として大日本帝国の戦争に加担した（当時の情勢で、それを避けるという選択肢はなかったといえよう）『南方紀行』の中で、佐藤が中国の詩人と即興詩の交換をする場面がすばらしい。現代カルチャーで喩えるなら、ラッパー同士の「サイファー」。漢詩も韻を踏むし、中国の文人たちはこうして即興詩を贈り合って交流してきた。佐藤が旅先で目の当たりにした運命のすれ違いを描いた9編。雑誌『オフショア』山本佳奈子さんによる解説エッセイ付き。